ひめゆり

沖縄戦で若い命を散らせた少女たち、そして生き残った少女たち、彼女たちを追った長編ドキュメンタリ「ひめゆり」の予告編をみて涙があふれた。なんとしてもこのドキュメンタリ映像を見ようと思った。

安っぽい共感の涙といってしまえばそれまでだが、私はどうも最近涙もろくなってきているような気がする。

数年前に病気で父を失い、誰が見ても立派な中年になり(つまり、もはや私は生よりも死に近い存在になったということだ)、秋葉原事件のような事件を知って心がかき乱され、そうして涙もろくなったのかもしれないと思うこともある。

しかし、だとしても案外私は人前で泣いていないのだ。あちこちでいい歳した大人がわんわん泣いたりしたら、まぁ周りの人間は迷惑に思うだろうけど、傷ついて血を流した心は泣いているのに表面上は平静を装っているということが多いような気がする。

秋葉原事件を起こした彼は信頼できる人の前で涙を流すということはなかったのだろうか。そういう人がいて、そういうことが出来ていたら、彼はあんな事件は起こさなかったのだろうか。今の私にはわからない。でも、どんなに時間がかかってもそれを考え続けていく責任が自分にはあるような気がする。

もし、あの場で命を落としていた中に、自分の友人が、恋人がいたら、いったいどれほど辛い思いがするだろうか。もしあの加害者が自分と縁のある人間だったら、どうして彼を止められなかったのかと自分を責め続けるだろうか。そんなことを考えると、あの事件は自分には関係がないと冷たく言い切ることは私には出来ない。

多くの事件・事故の解析が示すとおり、つい昨日まで完璧に動作していたシステムがある日突然暴発して大惨事を引き起こすなどということは普通ない。それに先行していくつかのトラブルが起きているのに、そのトラブルが示す危険信号を見過ごしてしまうために悲劇は起きるのだ。

事件・事故だけではない。人が病気になる場合や人がなす犯罪もこの意味では同じ構造を持っていると私は思う。上のような視点を秋葉原事件にも適用しつつ粘り強く考え続けていかなくてはならない気がする。

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いま、ここにある風景

昨日恵比寿で「いま、ここにある風景」を見てきた。

まだ感想文も中断中だけど、「いのちの食べかた」がよかっただけに、海外ドキュメンタリに二匹目のドジョウを期待したのだけど、ちょっとそれは甘かったようだ。

見た場所もよくなかった(恵比寿の美術館内のシアターで見たのだけど、なんと前列の人の頭で隠れてしまって字幕が読めないというのが結構あった。これってひどくない?)のだけど、この違和感はいったいどこから来ているのだろう。

今回の作品はいわゆるドキュメンタリに近い。「いのちの食べかた」のなかでは一切のコメントもナレーションも排除されていたけれど、この作品では作り手サイドの思いが割とよく挿入されていた。

今現在、中国で進行中の自然破壊の現実を告発する、みたいなスタンスを取らないと彼らは何度も強調する。そうしてしまうと、作品を見る側の中で生の現実は収まりのよいところにすぐに落とし込まれてしまい、もうそれ以上の発展、矛盾、違和感を生むことを止めてしまうからである。

だからこそ彼らは、自分たちが目指すことは巨大な現実全体を、理論や歴史知識を援用して上手に裁断することで見る側が咀嚼しやすいものに変形することではない、と主張するのだ。今中国が起こっていることを単純に良いとか悪いとか言っても始まらない。もっと別の、まったく新しい思考方法を我々は必要としているのだと彼らは言う。

こうした手法自体は珍しいことではないし、この方法で最初から最後まで押し切ったからこそ、「いのちの食べかた」は成功したのだと私は思う。作品の中で描かれたような野菜生産、生肉加工はこの世の様々な場所で常に進行していることだし、それを経た食品を我々は常に口にしている。そしてそうした流れに抵抗する者たちがいることも我々はよく知っている(言うまでもなく、有機農法などの流れである)。このような状況の下では単純な価値観には何の意味もない。必要なのはもっと別のシンキング・チャンネルなのだ。

しかし、「いま、ここにある風景」が写し出したものは別のもののような気がするのだ。

理論や歴史に関する知識を総動員することで、我々の前に立ちはだかる巨大な現実を包括的に理解しようとする道を放棄して、結局作り手たちが行き着いた先は自分たちのそのときどきの視線で現実の一部を切り取り、それを美的に再構成して観客に提供するという役割でしかなかったような気がするのだ。つまり彼らの意図とは違って、彼らが実際にしたことは生の産業現場が作り出す巨大な現実を、陰鬱だがその分未来的な魅力を放つアート作品に作り変えることだったんじゃないかと私は思わずにはいられない。

私がもっと聞きたかったのは作り手側の思いではなくて、中国の現実を生きる人々(もちろん、彼らとて一枚岩的存在ではない)の思いだ。それがまったく語られなかったとは言わないが、クリエーターとしての作り手たちの思いが過剰に語られる中で、私はむしろ興ざめしてしまったというのがもっとも真実に近いように思う。

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いのちの食べかた2

そしてそして、いよいよクライマックスの?屠畜・生肉加工現場の登場です。この現場を経験済みという人は少ないでしょう。

それだけにこの現場は視聴者にショックを与えます。例えば豚の場合、彼らが死ぬシーンを私たちが見ることはありません。作業者が豚に何か作業をを施して次のステップに送り出します。その間ブヒィブヒィと騒いでいた豚はその直後に物言わぬ死体となって製造ラインに戻ってきます。

後の過程は加工だけです。無人加工機が豚の腹部に食いついてがばっと切り開くと内臓がぼっとりと現れます。あるいは、人が機械を使って豚足をちょん切る工程があったりします。

鶏の場合はるかにスケールは小さいですが、目撃するシーンは同じくらい衝撃的です。加工ラインまで連れてこられた鶏はまだその時点では生きています。彼らは後ろ足を縛られた状態でつるされてラインを移動することになるのですが、いつ彼らが絶命するのかということが私には最後までわかりませんでした。見ている側が絶命する瞬間すらわからないというのは、生物にとってあっていいことなのでしょうか。

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いのちの食べかた1

「いのちの食べかた」をみてよかったという感想に嘘偽りはありません。でもね、最初の30分くらいかな、そのくらいの間は「なんだ、この程度か」って正直思っていたのです。

なぜかというと、序盤に出てきたのは主として野菜の栽培・収穫現場、あるいはひよこの選別現場などだったからです。野菜は血を流さないし、ひよこはまだ商品ではないので殺しません。その意味ではショッキングな映像は見ないですむのです。

ただ、人によっては野菜の栽培・収穫現場を見るだけで驚きがあるかもしれません。個々の労働者が決まったパートを受け持ち淡々と作業をこなす姿はそのようなタイプの労働と無縁な人には異様に見えるからです。

でも、私にはそれほど異様には見えませんでした。私は何年もの間、工場で働いた経験があります。そこで機械の組立作業をやっていたのですが、作っているものが食品と機械という違いはあっても単純作業という意味ではこの二つはよく似ています。

だから、私の感想としては「なんだ、野菜作っているところも工場と同じなんだ。あ、でも、そうだよな。大量に同じものを作るために効率をよくしようと思ったら自然とそうなるよな」というものだったのです。自分が知っているものしか映像になってなかったので、案外平凡だなと思ってしまったのですね。

本当はこの部分にこそ、この映画を見るときにとても重要になる視点が隠されているのだと私は気づくのですが、それはまた後のお話です。

私の感想が変わり始めたのは、どのあたりからでしょうか。あるシーンで二人の男性が登場します。彼らは作業服をせっせと着ています。まるでこれからクリーン・ルームに入ってハード・ディスクの組立作業でもするかのようです。そして防毒マスクをつけ、ぴちっとした手袋をします。

いったい何なんでしょう。彼の格好のどこが食品と関係あるのでしょう。実は彼らはその格好で野菜(たしかピーマン)に農薬をまくのです。作業者がそんな格好をしなくてはならないような農薬散布。。。

謎かけのようなシーンがもう一つありました。これにも二人の男性が登場します。作業服を着た二人はエレベーターで地下に降りていきます。それもずいぶん深くまで降りていくのです。いったいどこまで行く気だよって気持ちになるくらい。彼らが鉱山で働いているのなら、あるいはトンネルの工事現場で働いているというのならわかります。彼らはいったいどんな食品と関係しているのでしょう。

実は鉱山で働いているというのも、あながち間違いではないのです。私の観察に間違いがなければ彼らは岩塩を掘る現場で働いているのです。きっと、とても良質な塩が取れる場所なのでしょうね。綺麗に切り取られた白色の岩肌のせいで、まるでそこが聖なる場所であるかのように私には見えました。

そして、この映画においてある種、クライマックスであるといっていい屠畜・生肉加工現場に話は行くわけです。

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みてきたよ

「いのちの食べかた」みてきました。とりあえず、感想として一言、見てよかった。

でも、予想と違っていたのは、普通期待するような迫真のドキュメンタリではまったくなかった点。

普通、ドキュメンタリというと、動画の解釈を容易にするため、もくしくは、こういう風にみて欲しいということをきちんとオリエンテーションするために、テロップやナレーションがあるものだけど、そういうものは一切ありませんでした。

野菜の収穫現場や屠畜・生肉加工現場で働く作業者たちが昼食時に話している雑談も一切字幕なしでした。製作に関わった会社はドイツもしくはオランダと縁があるようで、その関係上撮影場所にもドイツもしくはオランダが選ばれたのでしょうか。作業者たちの会話もドイツ語かオランダ語が多かったような気がします。

この映画を見る人それぞれが持っている体験・経験によって、この映画をどう見るかは大きく変わってくる、そんな映画であると強く感じました。そのことについては明日以降に少し細かく触れたいと思います。

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いのちの食べかた

口直しという訳でもないけれど、「いのちの食べかた」に行ってきます。

動物解放論とかもかじった事があるおいらのような人間が見ると変に感化されるかもしれないけど、とにかく迫真のドキュメンタリに酔ってきます。

フィクションの力よりもリアリティの力を感じたい。いやいや、リアリティの力なんて表現すること自体がスノッブなんだろうな。

リアリティの力、現実の力を感じ取るために特別な技法など必要ないのだから。必要なことをただ一つ。閉じていた心の目を開くことだけ。

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インディー・ジョーンズ

インディー・ジョーンズ「クリスタル・スカルうんたらかんたら」をみてきた。

あのー、インディー・ジョーンズが昔の恋人のマリオンと結ばれたのは往年のファンとしては、素直に喜びたい。

しかし、映画の出来としてはどうなのかね。なんというか、ありきたり感がみなぎっていた様な気がするね。これから映画をたくさん見ようと思った一発目としては痛いかな。

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結婚しようよ

なによりも家族を大切にしてきた。50代の会社員である主人公にもかつては夢があった。しかし、夢だけでは人は生きられない。いたずらにそれを追いかけることをやめ家庭を持った。そして今の自分がある。

映画「結婚しようよ」の公式サイトのなかに、スペシャル・プレヴューという動画がある。主人公の会社員を演じる三宅祐司と娘役の藤澤恵麻と後誰かが、ロケセットの中で吉田拓郎の「結婚しようよ」を歌うのである。

三宅祐司のギターというものを初めて聞いたけど、なかなか味があってよかった。この動画はなんだかとてもほのぼのしていて、見ていてとても心地よい。陽だまりの日曜日みたいである。

この映画、見たいけど今上映しているのはたしかとても遠いところなのだ。もっと早く気づいていたらこんなことにはならなかったのに。

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映画を見たくなってきた

この数週間気持ちが落ち込んでいたけど、少しそれを脱しかけているようだ。それを可能にした出来事はなんとなく想像がつくけれど、わざわざ言うほどのことはないと思うので今は言わない。

映画を見たいな。本当に気持ちのよいアニメ作品ならアニメがいいけど、そういうものがなければ実写でもいいかな。

でも、色々と面白そうな映画もあちこちで公開末期を迎えているねぇ。まさか、映画一つ見るためだけに東北だの四国だのに行く気にはならないなぁ。

これは関東だからいいんだけど、時間帯があまりに微妙な「人のセックスを笑うな」ももっと前に見ておけばよかった。永作博美がおいらは好きなんだよね。いつからだったか忘れてしまっているけれどさ。

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ギャオス賛歌?

ガメラが好きだ。ギャオスが好きだ。あの平成ガメラ3部作が好きだ。とくに好きなのは、鳥類学者の中山忍と学芸員の水野美紀だ。とにかく、ギャオスについての論考を皆様に贈る。これは友人にあてた手紙という形式をとっているけれど、その部分はフィクションである。人を殺す武器を美しいとは、私にはやはりいえない。

 どうもお便りありがとう、楽しく拝見しました。ということでさっそくですが、感想を言わせてくださいね。

 君がギャオスに惹かれるのはまず何よりもそのフォルムに魅力を感じているからだというのは、その通りなのだろうなあと思います。東京タワーで卵を温めるギャオスを夕日が照らすシーンの美しさを賛美していた君ならそういう感想もごく自然にうなずけます。僕の好みからいえば少しタワーとギャオスの大きさのバランスが悪いのだけど、とても印象的なシーンであることは間違いありません。

 ガメラに対する気持ちとギャオスに対する気持ちが僕の中で大きく違う理由に関して、僕自身が挙げた理由よりもガメラの中に精神と呼べるようなものを、見つけ出せることを理由としてあげたのはお見事でした。

ガメラがある点で、人間以上に人間らしい(だからこそあるべき人間の姿をそこに読み取ることができる)のに対してギャオスはそうではない。彼らは欲望のおもむくままに人間を襲いむさぼり食うだけだ。人間の行動の中に、そしてガメラの行動の中に読み取れるような意志や理想といったものをギャオスの行動の中に読み取ることはできない。邪悪な意志の持ち主に対してなら憎悪することはできるが、ギャオスのような存在に対して僕には強い感情を抱けないという指摘はなかなか鋭く決まっています。

 ただ、精神不在のギャオスの営みの中に生き物としてのリアルさを見るという君の意見に対してはちょっと待ってという思いがしました。生き物らしさという言葉の意味が僕と君とでは違うのだけど、そこに僕のこだわりがあってギャオスの行動を生き物らしい営みだとはいいたくないのです。

 ギャオスは確かに欲望のおもむくままに人間を襲い、繁殖しようとします。彼らには天敵がいないし、何千年もの間眠ったままでいられる耐久卵をうんで適した環境がくるのを待つこともできるので、人間に代わって地球の支配者となることも十分可能でしょう。ギャオスが自然の生き物であって、進化の結果得た形質からそういう結果になるなら僕は何も言えません。しかし、設定からいえばそうではない。ギャオスは人工的に作られた生物であって、もともとはたぶん兵器として開発されたのではないでしょうか。そしてギャオスが自分たちの制御を越えてしまったために、ギャオスをつくった者たちはガメラを生み出したことになっていますね。

 人為的につくられたものが機能的に余分なものが削られていて、機能美と言えるような特性を帯びることは僕にもわかります。そのような特性を現代の通常兵器である、銃や戦車や戦闘機ももっているからです。ギャオスの美しさを賛美することに僕が恐れを抱く理由はそこにあります。ギャオスの美しさをたたえる姿勢と、戦闘機の美しさをたたえる姿勢は同じじゃないのか、ということなのです。(イタリア未来派と呼ばれる芸術家達は実際に、戦争を賛美しファシズムに加担しました。)

もちろん、殺人兵器を造ったのは人間だし、人間がその目的のために使用しないかぎり兵器とて単なる鉄の固まりに過ぎないのだから、本当に悪いのは兵器ではなくてそれをつくった人間だという考えが正しいということは僕にも十分にわかります。しかし僕はどうしても兵器を美しいとはいいたくないのです。もしギャオスが兵器なのだとしたら、それを美しいとは僕には口が裂けてもいえない。

 ギャオスは生き物ではなく、殺人兵器つまり、人殺しのためにつくられた機械に過ぎないという僕の主張には根拠が薄弱だと君は思うかもしれないな。人工的に作られたものだとしても生き物は生き物だし、ギャオスは自力で繁殖するという点で絶対的に機械ではないからです。なぜこれほどまでに僕はギャオスが生き物らしいという君の意見に違和感をおぼえるのだろう。たぶん、それはギャオスが兵器として作られる過程で、殺人という機能を果たすためには余分だと考えられるものを削られてしまっているからだと思うのです。それがギャオスを生き物らしいと僕がいいたくはない理由になっている。ではその削られてしまっているものとは何か。

 人間がもっているような知性を多くの生き物はもたない、それは確かです。同じ哺乳類に属する動物でも人間に匹敵する知性を有するものは他にいません。では感情はどうでしょうか。感情に関してもある程度同じようなことはいえるでしょう。昆虫やきのこに感情と呼べるものはないだろうからです。しかし、少なくても哺乳類には人間に匹敵するか、もしくはそれ以上に豊かな感情生活を営んでいるものがいると僕は思います。犬や猫を飼ったことのある人で彼らが感情を持たないと思っている人はおそらくいないでしょう。知性よりも感情の方が生物にとってずっと基本的なものだと思うのです。

イルカを自閉症の子供のセラピーに使う試みがアメリカで盛んらしいですが、それが可能なのはイルカの知性の高さもさることながら、彼らが豊かな感情生活を営んでいるからではないかと僕はにらんでいるのです。(嘘をつく能力を彼らは持っているけど、優しいがゆえにあえて嘘をつかないんだと聞いたことがある。)

 ギャオスに感情はあるだろうか、もちろん、感情の存在を否定することはできないけれど、豊かな感情生活を持っている可能性はとても低いと思うのです。彼らは共食いをします。えさがないという極限状態でそういうことをする生物はもちろんいるでしょう、人間とて例外ではありません。しかし、彼らにとって共食いはおそらく特別な事態ではない。ギャオスの卵が初めて見つかった洞窟で共食いは観察されたのですが、その時に中山忍が演じる鳥類学者(彼女は鳥類学者を演じるには少々可愛すぎるけど。)は「親がえさを運ぶことは考えられない、(生きるために)食いあったのよ。」といいます。それが正しいのなら、共食いをする状況の方が彼らにとって普通であるということになります。それは純粋なサバイバルゲームであって、強い個体だけが生き残るために弱い個体はそのえさになるのです。そのような生き物に豊かな感情生活を見いだすことはできないと思うのです。他の個体との感情交流をすることが生存上プラスになるとは思えないからです。

 仲間どおしの絆というものが存在しない生き物には、豊かな感情生活をおくっている可能性は低いと僕は思うのだけどどうだろう。卵をガメラに壊されたときにギャオスが怒ったように見えたけど、あれは果たして母としての怒りだったのか、それとも攻撃されたから怒っただけなのか。

 では豊かな感情生活をもっていない生き物は私の視点では生き物らしくないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。昆虫やきのこだってちゃんとした生き物です、哺乳類だけが生物なわけではありません。豊かな感情生活というのはあくまで生き物の中にある、生き物らしさを形成する要素の一つであって、それに尽きるわけではない。そして、生き物らしさを形成する要素はとても多様なのです。

 僕が1番いいたいのは生き物はとても多様な生き方をしているものであって、単なる生存機械ではないということです。繁殖して次の世代を残すというのは生き物にとってとても大事なことだけど、それを実現するために生きもの達がとる戦略はとても多様で、純粋かつ単純なサバイバルゲームに生き残った強い個体が一個体だけでも残ればそれで繁殖が出来るギャオスのような生き物は普通いません。イルカ類は群れの別の個体との間で深い感情交流があり、アカカゴタケ類は胞子を作る器官をとても奇妙な形に作り上げる。ただ次の世代を残すためならそんなに多様な形など必要ないだろうに。このことだけを取り上げただけで生き物が単なる生存機械ではないことがわかります。多少なりとも生き物の多様な世界に触れた僕にとっては、ギャオスのように、繁殖し生き残る能力だけが突出した生き物(生存機械)を生き物らしいとは絶対に言えないのです。
 

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二人の絆

デンゼル・ワシントン主演の「マイ・ボディガード」を見たよ。

字幕に英語字幕がなくて、日本語だけというところがDVDの不満な点だけど、本編はよかった。

言葉にすると陳腐になってしまうけど、この映画の魅力はデンゼル・ワシントンとダコタ・ファニングの間に芽生えた愛情に尽きると思う。

長い間血で血を洗うような生活を送ってきた男に一心に信頼を寄せる少女というのは、すこし話が出来すぎていると思うけど、ダコタの演技が自然な分だけ納得できるという気もする。

少女の前では決して笑顔を見せなかった彼が、少女との、親しみにあふれた会話の中で初めて少女に微笑みかけるシーンが好きだ。そのとき少女は彼にこういうのだ。You are smiling. 今、笑ったねって。

彼はそれを認めようとしない。そして、こういう。これは笑ったんじゃない。にやついただけだって。その後、二人は次の十秒で相手よりも先に笑わないでいられるかを競ったりする。もちろん、負けてしまうのは少女の方だ。彼女は彼の笑顔を見られて嬉しくてたまらないから。こんな、さりげなくて穏やかなシーンがとても気持ちがよい。

本当にこのシーンはいいなぁ。今年見た映画のベストシーンではないだろうか。

ダコタは普通の基準でいう美少女では必ずしもないところがいい。

もちろん、彼女を冷静に見たら美しい少女だけれども、なんというか、その美しさよりもさらに光り輝くものを彼女は内面に持っているような気がする。そこがいい。

彼女は誘拐事件に巻き込まれ、犯人グループに殺害されたといったんは思われたが、最後に救出される。そして彼女は彼の名を叫びながら彼の元に駆け寄る。

彼にかじりついて少女は泣きながら言うのだ。I love you と。字幕では「大好きよ」だったけれど、僕はもっと違うニュアンスをこのせりふの中に聞いたと思う。それがどんなものかを上手く表現することができないけれども、大人の女性が愛する男性に向かって言うせりふに近いニュアンスがあったような気がしてならないのだ。

まだ、二人が知り合ったばかりのころ、少女の母親が父親(少女と血はつながっていない)に向かって、「あの子は彼のことが好きよ」というシーンがある。父親は自分を家から連れ出してくれるものなら誰でもいいんだっていうだけで歯牙にもかけないけど、母親の言葉はもう少し重い言葉のような気がするんだよな。

ただ、少女が大人の男性に友達になってもらいたいと思っているにしては、少し深刻なんだと思うんだよ。もちろん、少女が一人の男性として彼に恋をしたといえないかもしれないけど、友達は友達でも、本当の親友になってほしかったんだと思う。

40歳近く歳が離れている二人だけど、少女はずっと彼に側にいて自分を見守ってほしかったんだと思うんだよ。その一途さが悲しくも美しいと思った。

映画のなかで、この二人の会話をもっと聞いていたかった。ストーリー上、二人の会話のシーンがほぼ前半に限られてしまうのが残念でならない。

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象の背中2

もうこの域までいくと蛇足としか言いようがないけど。

付き合いが途切れてしまっている懐かしい人々に、死を目前にした主人公が会いに行くという展開は、意外性はないけれど、悪くはないと思う。でも、これも中途半端だ。

初恋の女性と再会し当時言えなかった恋心を伝える。高校時代に大喧嘩をしてそれっきりになってしまった親友に会いに行く。ここまではいい。

思い出に残るようなシーンではないけれど、前振りとしては成功している。

次に出会う人は、彼が会いたくてあった人間ではなく、できれば二度と会いたくはなかった人物だ。かつての取引先の社長さんで、主人公は自社の方針を忠実に実行して、知らぬ顔で彼をはめて会社を奪った過去があるからだ。

病院でたまたま彼に再会した主人公は社交辞令の挨拶だけでそこを切り抜けようとするが、思い直して彼を食事に誘う。そして、主人公は知るのだ。主人公が彼から奪ったのは、会社だけではなかったということを。彼は会社を失った直後に妻子に去られ、そして、今孤独の中で癌で死のうとしているのだ。

彼とまったく同じ運命を結局は自分も一足先にたどるとはいえ、主人公は愛する家族に看取られて逝くことができる。だが、彼はそれすら許されないのだ。

雨の降りしきる中、主人公は彼に土下座してわびる。「気づかぬ振りをしていたが、私は自社の方針をよく知っていた。知っていながら、あえて何もしなかったのです。すみませんでした」と。

その後の話は、まぁどうでもいい。この痛いしっぺ返しのせいで、彼は懐かしい人々に会いに行くという計画をやめてしまう。「自分が会いたい人間にだけ会いに行こうとするのは傲慢だ」というのがその理由だ。

でも、だったら、主人公も劇中で言うように、生きているうちに会って詫びなくてはいけない人間に会いに行くべきなんじゃないだろうか。この点に関しても、ストーリーはとても中途半端だ。ひょっとしたら兄である岸部一徳に会いに行くエピソードがそれとしてカウントされているのだろうか。でも、主人公は自分がいなくなった後の家族の生活を心配して兄に金を無心するのだ。今までの非礼を詫びに行ったとはとてもいえまい。

恋人(つまり不倫の相手)や息子や娘と主人公との関係も、その掘り下げが中途半端なせいで、主人公を失うことに対するそれぞれの悲しみの深さが十分に観客に伝わってはこなかった。そういう意味では妻の苦しみさえも、この映画では十分に伝わってこなかったといえる。

だって、主人公が自分を裏切っていたことを、物語の後半で妻は知ってしまうからだ。いや、ずっと前から知っていながら知らぬ振りをしてきたのかもしれないけど、そうした妻の悲しみの深さも十分に描くべきだったんじゃないか。

最後に言えば、この映画のエンディングにかかる曲は、予告の特別映像の中ではそれなりの効果をあげていたのに、本編では最後の動きのない、人物が登場しないエンディングで使われていて、なんというか完全に浮いてしまっていたように思う。曲の使われ方としてもちょっと可哀想じゃないかと思う。

それでも、おいらがこの映画を駄作とまではいわないのは、キャスティングそのものには不満はなかった点と、そして、おいら自身がある程度似たシチュエーションで父を失っているのが大きかったと思う。

わずか2年前のことだからこそ、胸が熱くなったところもあった。

残されたわずかな時間を、家族とともに秋の浜辺で過ごすシーンはとても美しい。そして、チアリーダーとして頑張っている高校生の娘がチア・スピリットを発揮して最愛の「お父さん」のために演技をしてみせる。

それを見つめる役所こうじの赤くなった目には涙が光っていた。予告の特別映像でもここは見られるので、ここだけでもいいから見てください。

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象の背中

今日はとりあえず、見たてほかほかの「象の背中」の感想だけ。

結論を一言で言ってしまうと、素材はいいのだけど、調理が下手すぎ。

というか、味が薄くてぼんやりした感じ。あー、これってまさに料理が下手な人の味だよね。

なんというか、まさにそういうのを狙ったのだとしたら大成功だけど、いったい何を伝えようとしているのか、おいらには最後までわからなかった。

いろんな人が出てくるけれど、なんというか掘り下げ方が足らなくて、見ている側が感極まるなんていうシチュエーションにはならないところがもどかしい。

おいらに即して言えば、緊張した生活に疲れた人がすがすがしい涙を流したくて劇場まで足を運んだのに、とてもそういう気持ちの高まりがなかったって感じかな。あ、でも、具体例を出さないで批判するのは卑怯かもしれないね。

たとえば、延命治療を拒否した主人公が最後に入ったホスピスで知り合う青年がいる。肉親や恋人から離れて一人で死んでいこうとする青年が何故か、役所こうじに話しかける。そして、こういうのだ。「ここ(ホスピス)では、みんな人と仲良くなるのを嫌がるんですよね」。

「そりゃ、そうですよね。だって、ここで誰かと仲良くなったって、簡単に人が死んでいく場所なんですから」、「でもね、本当はここにいる人たちは他人よりも長く生きたいって思っているだけなんですよ」ってその青年は言うけれど、それは違うぜって思
った。

そうじゃないのさ。その青年の透徹したとは言いがたい、青臭いて妙に斜に構えた人間観に辟易して人は距離を置こうとするだけだと思うんだよ。おいらはね。だけど、役所こうじは彼を受け入れるんだよ。そして、こういうんだ。

私でよかったら、これからも話をしましょうよって。でも、結局映画の中でそれがどんな展開を生むのかは何も触れられないんだよね。青年が役所こうじとの出会いでどのように変わっていくのかは結局語られないままなんだ。最初のシーンのあとで青年と関係のあるシーンは、青年の形見のライターを握り締める役所こうじのシーンが描かれるだけ。

いったい、これってなんなんだ。

役所こうじも素材はいいし、今井美樹だって悪くはないと思う。ちょっと難しい役どころでの演技を強要されてしまっているから、その辺りが可哀想だけどもっと単純な良妻賢母の役どころだったらもっと生き生きと演技できたはずだ。息子役はかっこいい男の子だし、娘役の女の子もすれてなさそうな感じが好感が持てる可愛い女の子だ。

脇を固める役者たちも、会社社長の伊武雅刀を含めて決して悪くない。兄役の岸辺一徳だって、はまり役だと思う。でも、物語そのものになんか大事なものが足りない気がするのだよ。

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「夕凪の街」映画化記念

これも以前に書いた文章ですが、映画化にあわせて掲載します。一部修正を加えていますが、基本的には元のままです。「桜の国」については、これとは独立に単独できちんを書いてみたいと思っているのですがいまだ果たせていません。以下全文が私が以前書いたものです。

マンガ「夕凪の街」の主人公、平野皆実は23歳の女性である。原爆の残した傷が今なお残る終戦後10年経った広島で母と二人暮らしている。父と姉、妹は原爆で命を落とした。疎開していて難を逃れた弟は水戸の伯母のもとにいる。皆実は働いてお金をためて母と二人、弟に会いに行こうと考えている。

彼女には密かに思いを寄せる男性がいる。会社の同僚でカープと力道山の好きな打越という名の優しい青年である。彼も皆実に好意を持っているということが、不器用だけれども彼の心のこもった告白によって皆実にもわかった。

皆実は当然、打越の気持ちに応えようとするが、そのときの彼女の脳裏に稲妻のように浮かぶのは、忘れることの出来ぬあのときの惨状である。致しかたなかったとはいえ、助けを求める声を振り切り、あまりにも多くの人の死を悼むことも出来ず、死者から履物を剥ぎ取り、その人たちの犠牲の上に生き残った自分を責める声。

「お前の住む世界はそっちじゃない」

お前はそういう人並みの幸せを享受する資格のある人間ではない。お前は一度はアメリカ人に「死ね!」と思われたような人間なのだし、偶然に生き残ったとしても、そのときの殺意の刻印を心身に負ってしまっている人間なのだから。

皆実はたまらず打越のもとから走り去ってしまう。ごめんなさいと言い残して。

しかし、皆実が強いといえるのは、その殺意の刻印を乗り越えて進もうと決意するからである。次の日、皆実は打越に十年前の話を聞いてほしいという。そうすれば、自分が生き残った理由もわかるかもしれないし、自分が幸せをつかむことを死んだ姉や妹に対して申し訳ないと思う気持ちも乗り越えていける気がするからだ、と。

打越はその皆実の気持ちを優しく受けとめる。

そして皆実にこういうのだ。
「生きとってくれてありがとうな」と。

二人の気持ちが通い合い、そうしてこれから二人が幸せをつかもうとした矢先、皆実は原爆症に倒れるのだ。

いったい、皆実は何故こんな残酷な仕打ちを受けねばならないのだ。原爆投下後十年もの間、運命が彼女を生かしつづけたのは、生き残った罪悪感から彼女が苦しむようにしむけ、そして、やっと手に入れかかったささやかの幸せを皆実から奪い取るためだったのか。だがしかし、そんなことをする権利がいったい誰にあるというのだ。

原爆によって人々が経験したものが例えば、東京大空襲の経験と違うとすれば、それは間違いなく原爆症の存在であるだろう。東京大空襲で生き残った人間が被爆者と同じように心身に深い傷を負ったのは間違いない。東京大空襲で手をつないで共に逃げ惑ううちに父親とはぐれ、それきり彼と二度と会えなかった私の父も私の前で決してその話に触れようとはしなかった。悲惨さということではどちらも同様に悲惨で痛ましい出来事であった。しかし、東京大空襲で生き残った人々は戦後に死の心配をする必要はなかった。放射能による後遺症によって真綿で首を絞めるように殺されることはなかったからである。死に怯えながらなおかつ、人から差別されることもなかったからである。

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