ガメラが好きだ。ギャオスが好きだ。あの平成ガメラ3部作が好きだ。とくに好きなのは、鳥類学者の中山忍と学芸員の水野美紀だ。とにかく、ギャオスについての論考を皆様に贈る。これは友人にあてた手紙という形式をとっているけれど、その部分はフィクションである。人を殺す武器を美しいとは、私にはやはりいえない。
どうもお便りありがとう、楽しく拝見しました。ということでさっそくですが、感想を言わせてくださいね。
君がギャオスに惹かれるのはまず何よりもそのフォルムに魅力を感じているからだというのは、その通りなのだろうなあと思います。東京タワーで卵を温めるギャオスを夕日が照らすシーンの美しさを賛美していた君ならそういう感想もごく自然にうなずけます。僕の好みからいえば少しタワーとギャオスの大きさのバランスが悪いのだけど、とても印象的なシーンであることは間違いありません。
ガメラに対する気持ちとギャオスに対する気持ちが僕の中で大きく違う理由に関して、僕自身が挙げた理由よりもガメラの中に精神と呼べるようなものを、見つけ出せることを理由としてあげたのはお見事でした。
ガメラがある点で、人間以上に人間らしい(だからこそあるべき人間の姿をそこに読み取ることができる)のに対してギャオスはそうではない。彼らは欲望のおもむくままに人間を襲いむさぼり食うだけだ。人間の行動の中に、そしてガメラの行動の中に読み取れるような意志や理想といったものをギャオスの行動の中に読み取ることはできない。邪悪な意志の持ち主に対してなら憎悪することはできるが、ギャオスのような存在に対して僕には強い感情を抱けないという指摘はなかなか鋭く決まっています。
ただ、精神不在のギャオスの営みの中に生き物としてのリアルさを見るという君の意見に対してはちょっと待ってという思いがしました。生き物らしさという言葉の意味が僕と君とでは違うのだけど、そこに僕のこだわりがあってギャオスの行動を生き物らしい営みだとはいいたくないのです。
ギャオスは確かに欲望のおもむくままに人間を襲い、繁殖しようとします。彼らには天敵がいないし、何千年もの間眠ったままでいられる耐久卵をうんで適した環境がくるのを待つこともできるので、人間に代わって地球の支配者となることも十分可能でしょう。ギャオスが自然の生き物であって、進化の結果得た形質からそういう結果になるなら僕は何も言えません。しかし、設定からいえばそうではない。ギャオスは人工的に作られた生物であって、もともとはたぶん兵器として開発されたのではないでしょうか。そしてギャオスが自分たちの制御を越えてしまったために、ギャオスをつくった者たちはガメラを生み出したことになっていますね。
人為的につくられたものが機能的に余分なものが削られていて、機能美と言えるような特性を帯びることは僕にもわかります。そのような特性を現代の通常兵器である、銃や戦車や戦闘機ももっているからです。ギャオスの美しさを賛美することに僕が恐れを抱く理由はそこにあります。ギャオスの美しさをたたえる姿勢と、戦闘機の美しさをたたえる姿勢は同じじゃないのか、ということなのです。(イタリア未来派と呼ばれる芸術家達は実際に、戦争を賛美しファシズムに加担しました。)
もちろん、殺人兵器を造ったのは人間だし、人間がその目的のために使用しないかぎり兵器とて単なる鉄の固まりに過ぎないのだから、本当に悪いのは兵器ではなくてそれをつくった人間だという考えが正しいということは僕にも十分にわかります。しかし僕はどうしても兵器を美しいとはいいたくないのです。もしギャオスが兵器なのだとしたら、それを美しいとは僕には口が裂けてもいえない。
ギャオスは生き物ではなく、殺人兵器つまり、人殺しのためにつくられた機械に過ぎないという僕の主張には根拠が薄弱だと君は思うかもしれないな。人工的に作られたものだとしても生き物は生き物だし、ギャオスは自力で繁殖するという点で絶対的に機械ではないからです。なぜこれほどまでに僕はギャオスが生き物らしいという君の意見に違和感をおぼえるのだろう。たぶん、それはギャオスが兵器として作られる過程で、殺人という機能を果たすためには余分だと考えられるものを削られてしまっているからだと思うのです。それがギャオスを生き物らしいと僕がいいたくはない理由になっている。ではその削られてしまっているものとは何か。
人間がもっているような知性を多くの生き物はもたない、それは確かです。同じ哺乳類に属する動物でも人間に匹敵する知性を有するものは他にいません。では感情はどうでしょうか。感情に関してもある程度同じようなことはいえるでしょう。昆虫やきのこに感情と呼べるものはないだろうからです。しかし、少なくても哺乳類には人間に匹敵するか、もしくはそれ以上に豊かな感情生活を営んでいるものがいると僕は思います。犬や猫を飼ったことのある人で彼らが感情を持たないと思っている人はおそらくいないでしょう。知性よりも感情の方が生物にとってずっと基本的なものだと思うのです。
イルカを自閉症の子供のセラピーに使う試みがアメリカで盛んらしいですが、それが可能なのはイルカの知性の高さもさることながら、彼らが豊かな感情生活を営んでいるからではないかと僕はにらんでいるのです。(嘘をつく能力を彼らは持っているけど、優しいがゆえにあえて嘘をつかないんだと聞いたことがある。)
ギャオスに感情はあるだろうか、もちろん、感情の存在を否定することはできないけれど、豊かな感情生活を持っている可能性はとても低いと思うのです。彼らは共食いをします。えさがないという極限状態でそういうことをする生物はもちろんいるでしょう、人間とて例外ではありません。しかし、彼らにとって共食いはおそらく特別な事態ではない。ギャオスの卵が初めて見つかった洞窟で共食いは観察されたのですが、その時に中山忍が演じる鳥類学者(彼女は鳥類学者を演じるには少々可愛すぎるけど。)は「親がえさを運ぶことは考えられない、(生きるために)食いあったのよ。」といいます。それが正しいのなら、共食いをする状況の方が彼らにとって普通であるということになります。それは純粋なサバイバルゲームであって、強い個体だけが生き残るために弱い個体はそのえさになるのです。そのような生き物に豊かな感情生活を見いだすことはできないと思うのです。他の個体との感情交流をすることが生存上プラスになるとは思えないからです。
仲間どおしの絆というものが存在しない生き物には、豊かな感情生活をおくっている可能性は低いと僕は思うのだけどどうだろう。卵をガメラに壊されたときにギャオスが怒ったように見えたけど、あれは果たして母としての怒りだったのか、それとも攻撃されたから怒っただけなのか。
では豊かな感情生活をもっていない生き物は私の視点では生き物らしくないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。昆虫やきのこだってちゃんとした生き物です、哺乳類だけが生物なわけではありません。豊かな感情生活というのはあくまで生き物の中にある、生き物らしさを形成する要素の一つであって、それに尽きるわけではない。そして、生き物らしさを形成する要素はとても多様なのです。
僕が1番いいたいのは生き物はとても多様な生き方をしているものであって、単なる生存機械ではないということです。繁殖して次の世代を残すというのは生き物にとってとても大事なことだけど、それを実現するために生きもの達がとる戦略はとても多様で、純粋かつ単純なサバイバルゲームに生き残った強い個体が一個体だけでも残ればそれで繁殖が出来るギャオスのような生き物は普通いません。イルカ類は群れの別の個体との間で深い感情交流があり、アカカゴタケ類は胞子を作る器官をとても奇妙な形に作り上げる。ただ次の世代を残すためならそんなに多様な形など必要ないだろうに。このことだけを取り上げただけで生き物が単なる生存機械ではないことがわかります。多少なりとも生き物の多様な世界に触れた僕にとっては、ギャオスのように、繁殖し生き残る能力だけが突出した生き物(生存機械)を生き物らしいとは絶対に言えないのです。